法話

今の時代

佐藤公信 観音寺中(東京都国分寺市)/東京6号仏青会長

過去現在未来を考える時、何故か現在や未来を悲観的に捉える言説を多く見聞きます。
そして過去は美しくあり純粋であり、失われた世界のように描かれます。
映画でもそんな内容のものがヒットしました。自分自身「近頃は…」等と考える時もあります。
勿論僧侶ですし、社会の有様を「チョット待って!」「本当にそれで良いのか?」と仏教、真言宗の立場から文明批評することもいつも心の片隅に忘れず保ち続けてはおります。でも、正直なところ今の時代を生きている10代20代だったらどうだろうとも考えてしまう。

平均的に言えば、人はそれぞれ青春時代を過ごします。私も10代20代を過ごして来ましたし、他の方もそうでしょう。余り薔薇色の青春ではありませんでしたが、それなりに鬱屈として心乱れ、ワクワク心躍り一括りには出来ない時代でした。今から見てもとても美しくも良くもない時代です。もし現在と同じような社会、流行、娯楽があったとしたら自分自身どうだったのか?といつも自問しています。でもその時代が無ければ今の状態は無いわけで、一概に自分の過ごして来た時代を否定したくはありません。

よく時代の仕業にしてしまう言葉を聞きます。「今の時代は〜」「昔は〜」と抽象的な言葉によって一応の答えに落ち着くという方法です。でも実際はどの世代の方が美しい時代を過ごし、他の世代の方は乱れている時代を過ごしているなどという事は全く無く、各時代時代に夫々良さも悪さも有り一概に時代で人間を分ける事は出来ないと私は考えます。僧侶は年輩の方々と接する機会が多く、私も最近は流石に明治はないですが、大正生まれの方々とお話しする事も有り、昔話を聞く事も多々有ります。

様々なお話しを聞くと、人間の本質は時代では区切ることは出来ないのではないか?という疑問を持ちます。今の時代も確かに非常に多くの問題を抱えています。でも進歩している事も多々あります。飲酒運転も以前ならチョット一杯という方を沢山見てきましたし、シートベルトも締めますし、ゴミ出しも分別しますし、環境に対して少しはマシな製品も多くなりました。タバコも分煙になりましたし、俺の酒が飲めね〜のかという人も殆どいなくなりましたし、結構良い事もあります。一方一度レールから外れると、働いても働いても豊かになれない強固なシステムも出来上がってしまった様な時代かもしれません。

そこで「時代」のせいにしたり、発言力もない力もまだ小さい若い人のせいにしても事の本質は浮かび上がらないと思います。私たちは社会の一員でもあり、誰かを批判したり、問題提起することを心の奥底で恐れていると思います。何となくそう思っているけれど口には出せない事が多々あり、立場、関係に依り正論を我慢しなければならないフラストレーションがあります。勿論自分の考えが絶対ではなく、非が自分自身にある可能性も排除出来ませんし、社会構造も皆が自分勝手な事を主張しては成り立ちません。

ただ、本質的な事を「それはおかしいじゃないか!」と指摘出来ず、「時代」や「若者」の所為にするのはもう止めた方が良い様に感じます。世代間闘争をしても、ほくそ笑む人間が何処かにいるだけで、解決にはなりません。「近頃の若もんは・・・」というのは数千年前から謂われてきた言葉です。「近頃は…」という表現も大昔に遡れます。お釈迦様は時代などには目もくれなかった事と思います。寧ろ「若さ」「老い」「病」「死」などの誰もが通る人間の普遍的問題について考察したからこそ二千数百年たった今もその言葉が人々の心を奮わすのではないでしょうか?

ではお前が率先して言いたい事を言えと云われると中々困難ではあります。でも「若い世代」や「今の時代」の所為にはしたくはないと思っていますし、そのように行動して来たつもりです。年寄りを敬い、若者を引き立て、おかしい事はおかしいと言える、良い事は良いと言える、酒の力を借りなくても本音が言える、そんな社会であったり、僧侶に成長できたらといい年をして考えています。