法話

称名寺と大威徳明王坐像

宇田川弘勉 善紹寺住職(東京都葛飾区)/東京3号仏青会員

今年3月、新聞やテレビを通じて、鎌倉時代の仏師・運慶の作が新発見されたという報道がなされました。それによれば、1998年に、神奈川県の古刹で発見された木造大威徳明王坐像(だいいとくみょうおうざぞう)の内部から納入文書が見つかり、その記述から源実朝の養育係・大弐局の発願により、そこに建保四年(1216)に運慶が制作した旨の記載があったということです。

運慶の木造大威徳明王坐像は、高さ21cmの小さな像です。大威徳明王は、悪魔をにらみつける恐ろしい顔をした明王であり、6面6臂6足をそなえ、水牛の背にまたがる姿で表わされます。
しかし運慶の坐像は、破損が甚だしく、6本ある腕のほとんどと、6足のすべてが失われています。

大威徳明王坐像が発見された寺院、金沢山 称名寺 (しょうみょうじ)は、神奈川県横浜市金沢区金沢町にある真言律宗の別格本山です。金堂には、本尊として木造弥勒菩薩立像がお奉りされており、また金沢文庫(かなざわぶんこ)のある寺院としても知られています。

鎌倉幕府執権・北条氏の一族で、金沢(かねさわ)北条氏の祖、北条実時(1224−1276)が開基した寺院。これが現在に伝わる称名寺です。創建時期は定かでありませんが、その起源は、正嘉二年(1258)に、実時が武蔵国久良岐郡六浦荘金沢(現在の横浜市金沢区)の居館内に建てた持仏堂(阿弥陀堂)であるといわれています。

その後、文永四年(1267)、下野薬師寺の僧である審海を開山に招いて真言律宗の寺となりました。
鎌倉時代には、金沢北条氏一族の菩提寺として発展し、2代顕時、3代貞顕の代に伽藍(がらん)や庭園が整備されました。
いまも残る本堂前の阿字池を中心とした浄土式庭園は、見事の一言に尽きます。また、江戸時代の浮世絵師・歌川広重の作である金沢八景のひとつ「称名の晩鐘」は、ここの鐘楼を描いたものであります。

しかし、鎌倉幕府滅亡とともに金沢北条氏も滅亡し、寺運は衰退の一途をたどりました。

称名寺の金沢文庫は、実時が病没する直前の建治元年(1275)ころ、居館内に設けた武家の文庫です。かつて金沢文庫の蔵書には、実時が収集した政治、歴史、文学、仏教などに関わる書籍が収められていました。収集の方針は、その後も顕時・貞顕・貞将の三代にわたって受け継がれ、充実がはかられました。

金沢北条氏滅亡後は、菩提寺の称名寺に文庫の管理が任されましたが、寺院の衰退とともに蔵書も散逸していきました。
特に江戸幕府の初代将軍・徳川家康や加賀藩主・前田綱紀の持ち出した数はかなりなもので、「金澤文庫」の蔵書印が捺された古写本は、現在も日本各地に残っています。

菩提寺の称名寺による管理は、近代に至るまで継続し、昭和5年(1930)に神奈川県の施設として現在の神奈川県立金沢文庫が復興され、県立図書館として活動してきました。平成2年(1990)には、中世の金沢文庫の跡に新館が完成。現在、中世文化に関する歴史博物館兼図書館の役割を果たし、称名寺所蔵の文化財は、本尊弥勒菩薩像など一部を除いて、金沢文庫に寄託されています。

また金沢文庫には、運慶の大威徳明王坐像が保管されています。坐像は、独立行政法人国立文化財機構 東京文化財研究所と県立金沢文庫の共同調査によって調査がおこなわれました。像内には納入文書、東南アジア原産で輸入品の丁子(クローブ)、抹香(白檀を粉末にしたもの)、蓮の実(種)といった納入品が納められており、なかでも蓮の実(はすのみ)には、仏舎利の込められていたことが判明しました。

蓮の実は、約1.7cmという小さな物で、一端が削り取られ、ヒノキ材の栓(径約3mm)がしてありました。入れ物状になっていた蓮の実の内部を確認するため、X線透過写真撮影による調査を実施。その結果、蓮の実の中には、直径1〜2mm程度の円形不透過物がみられました。
これが仏像に魂を込めるために納入された仏舎利でした。

当時、仏舎利を仏像に納めることは、重要な造仏儀礼の一つとされていました。鎌倉時代初期、運慶は弘法大師空海による発願の大威徳明王坐像を含む、京都・教王護国寺(東寺)の五大明王像(現存・国宝)を修理したことがありました。その際、弘法大師所縁の仏舎利を次々と取り出したという記録が金沢文庫に残っています。
近年、記録されていた東寺の仏舎利についても、仏像修理の際にX線透過撮影で分析され、話題となりました。

これから紅葉の季節となります。神奈川県金沢にお越しの際には、ぜひ称名寺の浄土式庭園をご覧いただき、金沢文庫の歴史的遺物に触れてみてはいかがでしょうか。