法話

コーヒーとミルク

多田宏訓 満願寺住職(茨城県桜川市)/茨城中部仏青

私の住む茨城県は、とてもいいところです。
都道府県の魅力度ランキングでは最下位のようですが…

田舎ですが、自然は豊かですし、食べ物はとてもおいしいですし、何よりも人がやさしい。
いろんな方のご自宅に伺うと、ちょっとした用でも、必ずお茶を飲んでいけと誘われる。
そして、お茶を飲みながら、お話をして、笑いながら時間が過ぎていく。
そんなところが茨城というところです。

最近では、お茶といっても緑茶だけではなく、紅茶やコーヒーをいただくときがあります。
そんな時、ありがたいのですが、ちょっと困るのです。

実は私、コーヒーが得意ではないんです。

飲めないわけではないのですが、まだ味覚が子どものままなのか、
苦いものがあまり好きではないんです。
なので、コーヒーをいただくときはいつも砂糖とミルクをいれて飲んでいます。
そうすると飲むことができる。というよりも、とてもおいしく感じることができます。

砂糖は味を甘くしてくれるだけですが、不思議なもので、ミルクはコーヒー独特の風味を壊すことなく、まろやかになり、新しくコクが生まれ、そして飲みやすくしてくれます。

そんな風にコーヒーを飲んでいると、いつも思い出す言葉があります。

「コーヒーに入れるミルクのような人になってください。」

この言葉は、私の父が、母と結婚するときに、ある人からいただいた言葉です。

もちろん、私はまだ生まれていませんし、直接聞いたわけではないので、
人伝に聞いた言葉です。

でも、その意味は、なんとなくわかるような気がします。
コーヒーとミルクが混ざり合うように、多くの人たちと交流をもち、
コーヒーの味をまろやかにするように、社会や人々を和ませ、
その風味を壊すことなく、飲みやすくしてくれるように、けして自己主張せず、自分のことだけを考えず、世のため、人のためにやさしく、助け合いながら生きていく。

そんな意味の言葉だと私は思っています。
コーヒーとミルクに例えて、「和」というものを伝えてくれたのだと。

昔、仏教を厚く信仰し、興隆につとめた聖徳太子は、「一七条憲法」のなかで同じようなことを説いています。

一、 和を以て貴しとなし、さからうこと無きを宗とせよ
(和をなによりも大切なものとし、いさかいをおこさぬことを根本とせよ
上下にかかわらず、協力しあい、仲よく助け合う気持ちを持つことが大切である)

そしてこう続きます。

二、 篤く三宝を敬え、三宝とは仏と法と僧となり。すなわち四生の終帰、万国の極宗なり
(あつく三宝を敬いなさい、3つの宝とは仏、教え、それを共有する仲間である。
それはいのちある者の最後のよりどころであり、すべての国の究極の規範である)

先月、仏様は鏡だというお話をしましたが、私たちの生きるお手本である仏様を大切にし、
その正しい心、やさしく思いやりの心を大切にし、同じ時代に、同じ心をもって生きている、その一人ひとりのつながりを大切にする。

それが、お坊さんとして、人間として、コーヒーに入れるミルクのような人になるために、
大切にしていかなければならないものだと感じています。

「コーヒーにいれるミルクのような人に…」

そんな存在に近づけるようになればいいなと思っています。

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「お坊さん。頭はどうやって剃っているんですか?」

「頭ですか?お風呂でひげを剃りながら、ついでに髪の毛も剃ってます。」

「えっ!自分でやってるんですか?」

「そうですよ~。慣れれば、鏡を見ながらカミソリで簡単にできますよ。」

いろんな方とお話をしていると、私の頭をじーっと見つめながら、聞かれることがよくあります。

私は3~4日に一度、鏡を見ながら自分で頭を剃っています。
鏡はとても便利なものです。今の自分の状態がどうなっているのか、剃り残しがどこにあるのか、ありのままの姿をうつしだしてくれる。
日常の生活をしていくうえで、なくてはならないものです。

1日に何回、鏡をみることがあるでしょうか?
きっと鏡を見ない日はないでしょう。
いや、正確に言うと鏡を見るのではなく、鏡にうつっている自分をみているわけです。
鏡にうつっている自分を見ながら、きちんとした姿になっているか、恥ずかしくない姿になっているか、正しい姿になっているか、確認しています。

私は、毎日仏様に手をあわせています。
正直な話、最近まで仏様を拝むことはどういうことなのか、あまりよく考えずに手をあわせていました。
いろんな意味があるでしょう。
心に願いをこめて祈るため、悲しみ苦しみを抱えて仏様に救いをもとめるため、亡くなった方を供養するため、いまこの世に生きる人たちが無事に平穏に暮していけますように祈るため、いろんな気持ちをこめて手をあわせます。

ただ、最近気づいたことがあるんです。
仏様は鏡であると。自分の心をうつしだしてくれる鏡であると。

東京工芸大学名誉教授で僧侶でもある加藤智見氏はこんなことをおっしゃっています。

仏は人間を超越した存在でも、人間を創造したり、支配する存在でもありません。

あえていえば、諸仏は我々の先輩であり、お手本となるべき存在なのです。

私たちは、人生の先輩方の生き方を手本とし、憧れ、反省しながら、自分の心を見つめなおしていきます。鏡にうつる自分を見つめるように。
仏様もまた、私たちにとって手本のような、身近な存在であり、鏡であるような気がします。
私は仏様に手をあわせるということは、鏡を見ながら襟を正すように、手本とし、反省し、自分の心を見つめなおしていくことでもある。
そんなことをも考えながら、仏様に手をあわせています。

しかし、自分の心を見つめなおし、反省することは意外とむずかしいものです。
今の自分を否定することでもあり、プライドというものが邪魔するからです。
反省をするのは、自分の失敗や恥を見つめる勇気が必要になってきます。
仏様という鏡は、そんな勇気を与えてもくれる存在であるようにも感じます。

失敗も反省をすれば、すばらしい心の財産になります。
仏様という大きな鏡で、正しい姿を、自分の心を見つめなおし、心に少しでも多くの財産を築いていければと思っています。