法話

むさぼる

鷲見弘道 妙楽寺住職(埼玉県児玉郡)/埼玉4号仏青 副会長

「錬金術」という言葉があります。もともとは、普通の物質を「完全な」物質に変える技術のことらしく、科学がまだよく発達していなかった時代に、ヨーロッパをはじめ世界各地で研究されたり実験されたりしましたが、しばしば金(=ゴールド)でない物質を金に変える方法として考えられることが多かったようです。そのため、王侯貴族をはじめとする支配者の中には、夢中になって錬金術を体得した者(=錬金術師)を探し出し、金を「生産」しようとした者もいました。いつでもいくらでも金を手にしたいという「無限の」欲望を、錬金術で満たそうとしたのですね。

この「自分の欲望を際限なく満たしたい」という思い、およびそれを基にした行動を、一言で《貪る(=むさぼる)》と言います。仏教が教える煩悩の一つで、もっと欲しい、もっとしたいなど、「もっと」がいつまでも続く状態。どんなに手に入れても満足することがないのだから、穏やかな気持ちではいられないでしょう。少しでも周りの権力者より多くの金を手に入れ、自分の力の強大さを誇示しようとした王侯貴族は、どんなにたくさんの金を持っていても心休まることはなかったに違いありません。

さて、私たちは日常生きている中で、「嫌だなぁ」とか「辛いなぁ」などと思うことが少なからずあります。いわゆる「苦しみ」の気持ち。この原因にはいくつかのことが考えられると思いますが、特に「思い通りにならない」時に、苦しみを感じることが多いのではないでしょうか。「楽しみにしていた旅行の日に大雨が降った」、「急いでいるのに渋滞で遅れそうだ」など、自分の希望通りに物事が進まない場合、イライラしたり、何かに怒りをぶつけたくなったりして、穏やかな気持ちではいられなくなります。思い通りにならないものの中でも、相手が天気や時間の流れの場合は、自分ではどうすることもできないだけに、嫌な気持ちを元に戻すのはなかなか大変ですよね。「あきらめる(=明らかに物事を見る)」ことが必要になってきます。

《むさぼる》ことによっていつまでも満足できない状態(=苦しみ)が続くのも、結局は思い通りにならないから。ただ、この場合は思い通りにならない原因が「自分の欲」なので、自分自身でどうにかすることができるという点が、上記とは異なります。欲求の度合いによって、苦しみから解放されうるということですね。《むさぼり》ではなく「適当な(=ちょうどよい)」欲求が、平穏な気持ちや満足感を得る上で大事になるわけです。

人間の「~したい」や「~になりたい」などの欲求そのものは、生きる原動力として大切なものだと私は思っています。しかし、それが必要以上の限りない欲望になった時、常に満足できない状態となり、苦しみにつながっていくことになるでしょう。さらに、もしすべての人が無限の欲望を持って《むさぼる》ことをしたら、他人や自分以外のものをかえりみない「自分だけ」精神が満ち満ちて、思い通りにならないことだらけになり、結果的に誰も穏やかな気持ちでいられなくなるかもしれません。《むさぼり》は「我愛」とも言い換えられますが、「自分だけが大事」という考え方は、周りを嫌な気持ちにさせるだけではなく、逆説的に自分を苦しめることにもなっていると言えそうです。「自分が自分を大事だと思うのと同じように、周りのすべての人たちもそれぞれ皆そう思っている」ことを前提に、自分の欲求をうまくコントロールしながら行動したいものですね。

ここで「金」に関連した話を一つ。ロシアの童話に『金の魚』という話があります。「苦しみ」とは直接関係ないかもしれませんが、この話を読んで、皆さんはどう思いますか。

 

昔むかし、あるところにおじいさんとおばあさんが住んでいた。ある日、漁師のおじいさんの網に小さな金の魚がかかったので、家に持って帰ろうとしたところ、魚は「何でも願いをかなえてやるから逃がしてください」と頼んだ。無欲のおじいさんは願い事をすることなく、魚の頼みを聞いて海に逃がしてやった。

家に帰ってそのことをおばあさんに話すと、おばあさんはただ魚を逃がしたおじいさんのことをひどく怒り、魚にパンのお願いをしてくるように言った。

おじいさんは仕方なく、海に行き、魚にパンを頼んで帰ってくると、なんと家には本当にパンがある。これに味をしめたおばあさんは、次に桶、きれいな衣服、そして新しい御殿と、次々におじいさんを魚に頼みに行かせ、その願いはどんどんエスカレートしていった。

おばあさんはさらに女王になりたいと願い、ついには「神になりたい」とまで願った。その願いをおじいさんが頼みに行くと、魚は黙って暗い海の中に消えた。

おじいさんが家に戻ると、御殿は消えて元の粗末な家になり、おばあさんは元のボロを着て座っていた。金の魚は二度と網にかからなかった。

 

最後に、「無限の欲望」は、良い意味で言い換えれば「飽くなき想い」となり、錬金術への飽くなき想いは、例えばヨーロッパで磁器の製法につながりました。時には《無サボる(=サボらない)》ことも大切かもしれません。