法話

こだわる

鷲見弘道 妙楽寺住職(埼玉県児玉郡)/埼玉4号仏青 副会長

2013年、和食が世界無形文化遺産に登録されました。味や栄養・伝統文化としての側面だけではなく、季節の表現や盛り付けの美しさも魅力の和食。料亭などで出される料理を見ると、料理人の食に対する妥協しない思いが、全体にあらわれているような気がします。

さて、こうした料理人の思いのように、妥協しないで何かを追求することを、よく「こだわり」という言葉で表現することがあります。「こだわりの逸品」というように。こう聞くと、なんとなく素晴らしいもののような気がしてならないのですが、仏教ではこの「こだわり」を無くしなさいと教えているのです。なぜ???ためしに、国語辞典で「こだわる」を調べてみると、次のように書かれています。

1. ちょっとしたことを必要以上に気にする。気持ちがとらわれる。
2. つかえたりひっかかったりする。
3. 難癖をつける。けちをつける。

1の「何か一つのことに気持ちがとらわれる」ということから転じて、「妥協しないで一つの物事を徹底的に追求する」というように、肯定的な意味として使われるようになったのが、「こだわりの逸品」などの表現なのでしょうね。一つの物事に集中して取り組む姿勢は、とても素晴らしいことだとわたし自身も思います。

一方、「こだわり」を純粋に1の意味としてみた場合、結果的にもたらされるのは「苦」であると仏教は言います。たとえば「杞憂」という言葉は、中国古代の杞国の人が、天が崩れ落ちてきはしないかと心配したという故事からきていますが、これも必要以上に気持ちがとらわれた結果、不安で不安でたまらなくなってしまったわけですね。わたし自身は小学生の頃、ノートに文字をきれいに書くことにこだわりすぎて、授業中まったくノートを取れずに困ったことがあります(書いては消し書いては消しの繰り返しで、かえって汚くなってしまいました…)。本当に大事なのは、字ではなく内容のはずですが、今思うと、自分の思い通りの文字で書いたノートにこだわっていたため、そんなことには気づかなかったのでしょう。毎回、字をノートに書くことが苦痛だった記憶があります。「こだわり」を無くしなさいとは、思い通りにならないこともあるのだから、もっと肩の力を抜いて、「楽」な気持ちで生活しましょうということなのかもしれません。

この「こだわり」に対して、仏教の教えの中には「中道」という言葉があります。「零か百か」といった極端なものの見方や行動にとらわれずに、「真ん中」のちょうどよいところをいきましょうといったところでしょうか。お釈迦様はさとりを得るための修行をしていたとき、極端な苦しいだけの修行ではさとりの境地から離れていってしまうことが分かり、「中道」の重要性に気づきましたが、「適当な(=ちょうどよい)」ところで落ち着くのが、物事を長続きさせるコツかもしれないですね。まったくやらなければ何も始まらないし、やり過ぎたり気持ちがとらわれ過ぎたりしては苦痛になることもある。「いい加減」という言葉もありますが、まさしく、何事もちょうどよい具合に処理できれば、イライラしたり不安に感じることも少なくなるはずです。

このようなわけで、仏教では「こだわり」を無くすことを説いていますが、冒頭で見たように、言葉はそれを使う人たちや時代によって、意味が少しずつ変わったり転じたりする場合もあるもの。したがって、「いろいろなことにこだわる(=必要以上に気持ちがとらわれる)ことなく、仕事や趣味にはこだわって(=妥協しない、とことん追求する姿勢で)生活しています」という文章、言い回しは少し変ですが、こだわりを無くして読んでみると、間違ってはいない…かもしれませんね。