法話

貧女の一燈

根本聖道 梅照院副住職(東京都中野区)/豊山仏青総務次長

ときに人間は、自分をよくみせたいと思うことがあるようです。
一般的に、それは周囲の目を意識した虚栄心のあらわれだといわれますが、最近それが本当に的確な言いあらわし方なのかと疑問に思っています。というのも、よくよくわが身を振り返ると、人間が見栄を張るときは、他人の目に対してではなく、自分の目に対して行うものだからです。

ここでいう他人の目とは、他人が持つ自分へのイメージというものに敏感である人が自分の中で作り上げるものであります。それは、過剰に意識して他人の目というものを自分の存在価値に大きな影響をもたらすものとしてとらえてしまう状態・・・とでもいいましょうか。
つまり、他人の目は自己の心が作りあげている部分が多く、それが作り上げられる要因が、自分に対して自分をよくみせたいという虚栄心なのです。

虚栄心は、誰の心にも起こりうるもの。それがコントロールできているうちは問題ありませんが、自制がきかないほど大きな虚栄心になってしまうと、あちらこちらでトラブルを引き起こす原因ともなります。自分をよく見せるために、嘘をついてまでほころびを修繕し、ときには他人の気持ちまでも踏みにじる行為をしてしまいます。

正直なところ、かくいう私も、自分の心におこる慢心を反省することが多々あります。そのとき、いつも思い出すのが「貧女の一燈」というお話です。

お大師さまがおられる高野山奥の院の燈籠堂には、そこを訪れる信者たちによって、多くの燈籠が掲げられています。そのなかに、平安時代から消えることなく灯り続けている1メートルほどの燈籠があります。

「貧女の一燈」は、この燈籠にまつわる伝説です。燈籠を寄進したのは、平安中期ごろの和泉国坪井(現在の大阪府岸和田市)に住んでいたお照さんという娘です。
お照さんは、自分を育ててくれた養父母が相次いで亡くなると、その供養のために女性の命ともいえる自らの黒髪を売って燈籠を寄進したと伝えられています。

燈籠を寄進するさいの逸話として、こんな話があります。
女人禁制の高野山に登れないお照さんは、とあるお坊さんの協力を得て、燈籠の寄進をすることができます。ところが丁度同じときに、数多くの燈籠を寄進した大金持ちの薮坂長者が、自分の立派な燈籠を台無しにするからといって、みすぼらしいお照さんの燈籠を取り除くように命じました。するとにわかに突風が吹きこみ、薮坂長者の燈籠の火はすべて消えてしまったそうです。ただ一つ、ともし火をたたえていたお照さんの燈籠を除いて・・・。

私は、いまも燃え続けているこの燈籠の話を思い出すたびに思うのです。
自分をよく見せようという虚栄心は、時として真実を覆い隠してしまいます。自分の行いが、いかなる意味を持つものであるか。それは、本当に必要なものであったのか。本当に自分がやるべき行動を見失わせてしまう。

たしかに、数多くの燈籠を寄進した薮坂長者の行動は、一見仏法を敬う態度を表した立派な行いに見えます。
しかしそれは、本当に仏法を敬う心からおこったものではありませんでした。ただ単に、自分の行いが立派なものであると世間に示したかっただけなのです。

結局、単なる自己満足と名声欲のための行動であったが故に、その本心がお照さんの燈籠を取り除こうとする行動になってあらわれてしまった。「貧女の一燈」は、そんな真心のこもった行為とはどのようなものであるかを教えてくれています。

2007年は、スポーツ選手の謝罪や食品会社の製造年月日偽装など、虚栄心によって生じた慢心が大いに表れた年でした。これらは決して他人事ではありません。私たちは過去の出来事を忘れずに振り返り、日々自分自身を律する必要があります。
新しい年は、自分とその周囲のつながりをきちんと見つめられる充実した日々にしていきたいものです。