法話

覚鑁上人と「密厳院発露懺悔文」

舎奈田智宏 真勝院副住職(東京都葛飾区)/東京3号仏青会員

仏教においては、菩提心や六波羅蜜など基本的な教えとなるものがいくつかあります。
その中のひとつに、懺悔があります。これは、出家在家を問わず仏教を信仰するものが、日々の生活における行いを反省する重要なものです。その起源は、お釈迦さまの時代に既に見られます。真言宗の歴史において、この懺悔を語る時はずすことができないのが、興教大師覚鑁上人(1095〜1143)作と伝わる『密厳院発露懺悔文』です。

覚鑁上人は、現在の佐賀県のお生まれです。やがて京都に上り、仁和寺成就院の寛助僧正の弟子となり、その後修行を重ねられ高野山に登り、高野山の復興と弟子の育成に力を注がれました。また晩年移り住んだ根来においても、弟子の育成に尽力されました。また覚鑁上人は、その当時盛んであった浄土往生思想を真言宗の立場から述べた『五輪九字明秘密釈』など、多くの著作を残されました。

これは、覚鑁上人が自らの行いを懺悔するべく記されたとされるものであり、今も長谷寺の朝勤行ではこれを読み上げます。「我ら懺悔す。無始よりこのかた妄想に纏われて衆罪をつくる。」と始まるその中に、「しばしば忿恚を起こして忍辱せず、多く懈怠を生じて精進せず」という一節があります。
これは「怒りにまかせて我を見失う」ことであり、三毒でいえば「瞋恚」に相当します。怒りとは、自分の考えた通りに事がはこばなかったりした時に起きてしまう心の働きですが、これをうまく取り扱うのはなかなか難しいものです。

私もたまに、「忿恚を起こし」そうな場面に遭遇することがあります。
「え、最初の話と違うの? いつ変わったんですか? いつの間にそんな話になっているの…? そもそも何がどうなっているの〜???」
なんてことを、心の中で叫んでいる時があります。今まで、「忍辱せず」という状態にはなったことがありませんし、ただその後で「心意散乱」して「懈怠を生じ」てしまうことがあります。
「これではまずいなあ…。」と思うのですが、なかなか「懈怠を生じて」から「精進する」のは難しいものがあります。そんな時は、仕方がないこんなこともあると割り切って(半分諦めて)、何か別の仕事を探したりしてなるべく気分を切り替えるようにしています。

しかし本当は、気分を切り替えるだけでは根本的な解決にはなりません。
以前読んだ心理学の本に、「他人を変えるということは基本的にできない。変えることができるのは自分だけ」ということが書いてありました。結局のところ、何か問題がおきたのなら、それを自分自身が冷静に対処できることでしか問題を処理できません。そもそも何らかの理由で、自分の都合よく期待通りにことが運ばなかった、ただそれだけのこと。だからこそ「忿恚を起こさず、忍辱する」ことが大切なわけですし、そして日ごろの行いを反省してそれに対応する行動をとれるようになることが、怒りに惑わされない自分を創る一つの方法となります。

私も「行住坐臥、知ると知らざると犯すところのかくのごときの無量の罪」を犯してしまうもの。
覚鑁上人は、他人の犯した罪もまた自身が代わって懺悔することを述べていますが、未熟な私はまず自分の行いをしっかりと反省し、心を乱さずに日々の物事を進められるよう自分を磨きたいと思っています。
また宗派においても、先日(平成19年3月)受戒会の講習会がありましたが、せっかく我々には覚鑁上人という偉大な先輩がいらっしゃるのですから、単に戒を受けるだけでなくそれに付随する日々の反省、すなわち覚鑁上人が大切にされた懺悔を我々一人一人が実際に行うことも大切かと思います。そして、その懺悔から次にどんな行動を起こさなければならないのか、それを考え実行することが重要ではないでしょうか。