法話

心の“極楽”

大塚 恵俊 大日寺副住職(千葉県千葉市)/千葉中部仏青会員

昨今の新聞やテレビのニュースにおきまして、殺人事件などを始めとする痛ましい事件の報道を目にしない日がないと言っても過言ではないと思います。
おそらく、こうした事件を引き起こしてしまった人達は、自分自身の心ときちんと向き合うことができず、心のコントロールを失ってしまっていたのではないでしょうか。
私自身も、日常生活の中で、ついつい腹を立ててしまうことや、自分自身のふがいなさにため息をついてしまうことがございます。

皆様はいかがでしょうか?毎日の仕事やストレスの積み重ねで、自分自身の心のコントロールがつかなくなってしまう時はないでしょうか?目に見える自分自身の体は、自由自在に、意のままにコントロールすることができますが、心のコントロールはなかなか上手くいかないものです。

そこで、今回ご紹介させていただきたい短歌がございます。

極楽は西にもあるが

東にもある

北道さがせ

南にぞある

この歌は、通称「山寺」の名で親しまれ、松尾芭蕉が名句「閑かさや巖にしみ入る蝉の声」を詠んだことでも有名な、山形県の「立石寺」というお寺の境内に掲示されていた歌でございます。いかがでしょうか?仏教の知識をお持ちの方でしたら、疑問に思う点があるかもしれません。

極楽とは阿弥陀如来様のいらっしゃる世界で、それはそれはすばらしい世界だとされておりますが、この歌によれば、東西南北のどの方向にもあると受け取れます。一般的には、「浄土三部経」の一つである『阿弥陀経』などを典拠として、極楽は、気の遠くなる程遠く離れた西の方向にあると説かれています。したがって、ご紹介した歌に疑問を感じた方もいらっしゃったのではないでしょうか?

では次に、以下のように詠んでみてください。この歌に隠された奥深い掛詞と味わい深い内容に、思わず顔をほころばせてしまうかもしれません。

極楽は西にもあるが

東にもある

来た(北)道さがせ

皆身(南)にぞある

いかがでしょうか?「来た道」、すなわち、自分自身が一歩一歩ゆっくりと歩んできた人生を振り返ってみましょう。皆さん一人一人の体の中、つまり、心に、極楽にいるような安穏で平和な気持ち、あるいは仏様のようなあたたかい慈悲の心を持てた時があったでしょう。そんなメッセージが込められているように私には思えました。

ついつい目先の困難を思うあまりに、自分の心のコントロールを失いがちになりますが、そんな時には、この歌を思い出してみてください。誰にでも、仏様のような安穏として、あたたかい慈悲の心を持てる時があるはずです。弘法大師も「それ仏法はるかにあらず、心中にしてすなわち近し」とおっしゃっているように、仏様の教えは、はるか遠くの彼方にあるわけではなく、極めて近くに感じられる自分自身の心の中に眠っているだけなのです。

心のコントロールを失いそうな時には、皆さん一人一人の心に具わっている“心の極楽”を探し、その心と向き合ってみてはいかがでしょうか。