法話

一人ではない

田中宥弘師 正延寺副住職(千葉県船橋市)千葉5号仏青会員

『悟り』とは、なんなのだろう。

東京書籍の『佛教語大辞典』には、

【悟り】覚悟。証悟(しょうご)。真理に目覚めること。また、その体験の自覚的内容をいう。

真実の智慧。

岩波書店の『広辞苑』には、
【悟り】[仏]迷いが解けて真理を会得すること。

とあります。なんとなく分かるようで分からない感じです。大して変わらない気がします。『真理』って何だろう?と思ってしまいます。それもそのはず、その答を知るということは、仏教の最奥であり、歴史に名前が残るくらいの偉業な気すらします。

そこで私なりに考えてみた結果、『真理』というのは、仏教に関わらず、あらゆる場面に存在する真実のようなもの、ととらえてみました。

何かをやっている最中に、「あれ?これって実はこういうことなの?」と突然に分かったことが、記憶にないでしょうか?たとえばそれがスポーツなら、上達の鍵といい、勉強なら、その科目のポイントなどといいます。それが仏教では、『悟り』と呼ぶのではないでしょうか。

私の大親友のK川君と、一年に一回だけの旅に出かけた時の出来事です。たまたま見つけた、名もない滝を二人で見ていました。とても綺麗で壮大で、なぜか自分が小さく見えてしまうような素晴らしいものでした。
その帰りの道中にK川君が突然「俺って、なんてちっぽけな存在なんだ。もうアリも踏めない」と言ったのです。彼が何を感じたか、それは彼しか分からないと思いますが。その言葉を聞いて、ふと思いました。

仏教には『不殺生(ふせっしょう)』という教えがあります。ご存知の方も多いと思います。
「むやみに命を奪ってはいけない」という教え。

それまでは当然のこととしてとらえ、恥ずかしながら、たいして考えたことはありませんでした。しかし、K川君の言葉を聞いたとき、故意ではないとはいえ、アリの一匹も踏まないなんて無理な話で、ましてや、肉も魚も食べている、もっと言えば野菜だって生きています。
生きるための食事だから仕方ない、っていう人もいるだろうけど、命というものに差があるとは思えないし、思いたくありません。
確かに存在する命を奪わないのなら、まったく外に出ないで、飢えるしかない。そんなことが仏教の教えであっていいはずがない。と思ったのです。

そこで、僕はK川君に
「アリの一匹も踏まないなんて出来るわけない、生きているなら、必ず何かを犠牲にしてるんだ。だから、無意識にでも、食事でも、奪ってしまった命を尊んで、その命の分も背負って生きなくてはいけない」

そう言った後に、これが『不殺生』の本当に言いたいことなのかな、って勝手に思ったのです。悟ったのでしょうか? (殺人やテロに対して言っているのではなんですよ。一応)
そう考えると、ちかごろ急増している『親殺し』『子殺し』『自分殺し』など、とんでもない話だと思います。いろんなところで聞きますが、決して一人の命ではないことを考えてほしいです・・・。

『不殺生』「むやみに命を奪わない」の後には、
自分を「生かしてくれている」命の有難さを感じなさい。

という一文があるのです。

合掌