法話

観音さまとおかげさま

大河内海光 能満院住職(奈良県桜井市)/奈良仏青会員

 

私は、奈良県の長谷寺に勤めています。

長谷寺は、真言宗豊山派の総本山であるのと同時に、西国観音霊場の第八番札所でもあるため、年間を通してさまざまな問い合わせの電話がかかってきます。
ほとんどの方は、丁寧な言葉で電話をしてこられるのですが、中には目が点になるような方もいらっしゃいまして…。

私:「はい、長谷寺でございます」
相手:「あ、長谷寺さん? 牡丹の花を見に行きたいんやけど、咲いてる?」
私:「牡丹

は盛りの時期をやや過ぎた頃でして、遅咲きの花ならば咲いております」
相手:「あ、もう満開ちゃうんや。 じゃあ行ってもしゃーないな」
私:「はい?えー、まあ牡丹の観賞が目的であれば…。でも、お参りをなさるには良い時期ですよ」
相手:「牡丹咲いてへんと行く意味ないやろ。おおきに」 ガチャ

…どうやら観音さまのお参りは二の次のようです。

また、こんな電話もありました。

相手:「すみませーん、電車でそちらに行きたいんですけど、どこから乗ればいいの?」
私:「…えー、まずお住まいの場所を教えていただけますか?」
相手:「え? ああそうか、西区です、西区」
私:「えーと、西区というと…」
相手:「西区ゆうたら、大阪の西区に決まってるでしょ」
私:「え、あ、ああ、そうですね。 では○○駅から乗って下さい」
相手:「○○駅ね、ありがとー」 ガチャ

…西区は神戸や名古屋にもあります、念のため。
ちなみに、この方は数分後に再度電話をかけてきて、どこで下車すればよいのかを訊ねられました…。

まあ、こういう電話はごくわずかなのですが、近年特に多い問い合わせがあります。それは、「車で上(観音堂)まで上がる事ができますか?」というものです。
長谷寺には、仁王門から本堂まで約400段の石段がありまして、慣れていないと歩いて登るのは結構苦労します。この問い合わせに対しては、基本的に身体の不自由な方や、高齢で自力で登るのが難しい方に限り、本堂近くまで車で上がることを許可しています。
逆に言えばそれ以外の方には、歩いてお参りすることをお願いしているのです。
そのため、不満をあらわにする方もいらっしゃいます。

「よその寺では、本堂のすぐ近くまで行けたのに、長谷寺は不便やな。」
「道があるんやから、通してくれてもええやないか。」 などなど…。

しかし、お寺のお参りにはそのお寺ごとのルールがあります。
長谷寺においては、仁王門から本堂に至る道が正式な参道であり、車道はあくまで荷物運搬用または緊急用の脇道でしかありません。そして、参道に存在するものには全て意味があります。

まず入り口の仁王門は、その先が仏さまのいる聖域であることを意味しています。仁王さまの怖しい顔を目にする事で、心を引き締め、覚悟を決めて一歩を踏み出すのです。

一礼をして門をくぐれば、延々と続く石段が視界に入ることでしょう。
最初はゆるやかな石段も、登るにつれて徐々に傾斜が急になってゆき、さらに直角に二度折れ曲がっているのでなかなかてっぺんが見えてきません。
この石段は人生そのものを表しているといわれており、年を経るにつれて次第に増える悩み・苦しみ、先の見えないに未来に対する不安、そういったものを踏みしめながら本堂を目指していきます。

息を切らしてようやく本堂にたどり着き、10メートルにもおよぶ観音さまを見上げた時の感動は、言葉では言い表せないものがあります。

そして、蝋燭や線香を立てて、本尊さまの前で手を合わせてお願い事をし、再び石段を下って、仁王門で最後の一礼をした時点で、初めてお参りが済んだということになります。
この一連の参拝の流れを見れば、やむをえない場合を除いて、車で本堂脇まで上がる参拝の方法にはあまり意味がないのではないかと私は思わざるを得ないのです。

近年は、便利であるということが当たり前になり、さらなる便利さを追い求める一方、不便なことは害悪であるというような風潮が広がりつつあります。
しかし、便利さを優先させるがゆえに物事の本質が歪められてしまうとしたら、それは悲劇でしかありません。不便であるがゆえに苦労をし、苦労をするがゆえに大きな達成感が得られることがあることを忘れてはいけないと思います。

話を戻しますが、長谷寺にお参りに来られるすべてのご高齢の方が車を利用しているわけではありません。90歳を超えても、杖を片手に石段を登ってお参りをされるおばあちゃんを私は知っています。
また、両脇を息子夫婦、背中をお孫さんに支えられて観音様の前までたどり着いたおじいちゃんを目にしたこともあります。

そういった方々は、我々に対してこのように言われます。
「おかげさまで、お参りすることができました。」

観音さまのおかげ、家族のおかげ、まわりの人々のおかげ。
「おかげさま」という言葉には、いろいろな想いが込められています。
悲しいかな、世の中が便利になればなるほど、「おかげさま」という言葉を使う人も、使う機会も減って来ている気がしてなりません。私は、便利主義で覆われたこの現代にこそ、「おかげさま」という感謝の言葉とその気持ちがもっともっと必要ではないかと思うのです。

時間に余裕ができた際は、ぜひ長谷寺にお参り下さい。
息を切らせて石段を登りきり、金色に輝く大きな観音さまを目にした時、これまでにお参りをした無数の人々の感謝の想いが、あなたの心にも染み渡ることでしょう。