法話
生と死が交錯する場所 −金剛頂寺−
中嶋弘顕 極楽寺副住職(高知県安芸郡)/高知仏青会員
今日も遠方から、大勢の人びとが四国八十八ヵ所巡礼の旅にやってきます。
四国は、お大師さまがお生まれになり、厳しい修行を積んだ地です。のちにその足跡は、道程三百六十余里(約1,440km)の遍路道(へんろみち)となり、長きにわたって巡礼者に歩き継がれてきました。
徳島県の第1番札所 竺和山霊山寺からはじまる四国遍路の旅は、巡礼者を一路南の方角へといざないます。高知県に入った遍路道は、紀伊水道が目の前にひろがる海沿いの道となり、大海の絶景がひろがる室戸岬へと至ります。
室戸岬の北西にある第26番札所 龍頭山光明院金剛頂寺は、若き日の弘法大師が厳しい修業をされた古刹です。「東寺」と呼ばれる室戸岬の第24番札所 室戸山明星院最御崎寺に対して、別名「西寺」とも呼ばれています。
金剛頂寺の歴史は、大同二年(807)勅願により鎮護国家の道場として建立されたことから始まります。
本尊である弘法大師作の薬師如来坐像は、みずから本堂の扉を開いて鎮座されたといわれており、開基以来一度も人の目に触れたことのない秘仏となっています。
全盛時代には、戦国大名の長曽我部元親や土佐藩歴代藩主からの厚い庇護を受け、七堂伽藍は整備され、寺領三千五百石を有する繁栄をほこりました。
しかし、度重なる災害によって堂塔のほとんどを失い、大師堂以外は明治以降に再建されました。
四国には多くの弘法大師伝説がありますが、金剛頂寺には鎌倉時代の絵巻物『弘法大師行状図画』にある「天狗問答」という逸話が伝えられています。「天狗問答」とは、19歳のお大師さまが、この地での修行を妨げようとした天狗たちに仏の貴さを教え、西方の足摺岬へと追い払ったという話です。
このほかにも、お大師さまの修行を邪魔しにあらわれた魔物の伝承として、室戸岬の毒龍の話が伝えられています。
12世紀ごろの室戸岬は、金剛浄土の入り口とされ、海の彼方にある観音菩薩の補陀落浄土へと渡海する拠点となっていました。同様の渡海行為は、補陀洛東門と称された足摺岬でも行われており、2つの岬は、この世とあの世とが交錯する境目の聖地として信仰されていたようです。
もしかすると、天狗や毒龍といった異界の魔物が登場する伝説は、こうした異界に対する信仰の影響から生まれたのかもしれません。
また金剛頂寺は、お大師さまの灌頂名「遍照金剛」がつく寺ですが、足摺岬にも「金剛」がつく第38番札所 蹉陀山補陀落院金剛福寺というお寺があります。
これら二つの寺院名からもまた、室戸岬と足摺岬との関連がうかがえます。
現在のような大師信仰にもとづく遍路は、江戸時代から現れます。
詳しいことはわかりませんが、平安時代以降広まった大師信仰は次第に補陀落浄土信仰を吸収し、今日みられる遍路のかたちを整えていったと考えられています。
大師信仰が庶民層へ浸透するようになると、それまで主に僧侶が修行していた四国の地に、在家の巡礼者が出現します。江戸中期には民衆による遍路が最盛期をむかえ、多くの人びとが四国を歩くようになりました。
現代の四国遍路には、全国から様々な目的をもった人びとがやってきます。
多くは観光として訪れる人びとですが、そのなかには自分自身を見つめ直す機会として四国遍路をする、いわゆる自分探しの旅をする人もいます。
むかしから、四国は死後の世界と隣接している”生と死とが交錯する地”とされてきました。
いま生きている自分を見つめるため、生と相対する死に向き合う…。四国を訪れる人びとは、現代においてもお大師さまとともにあゆむお遍路さんとなり、異界との境界を旅しているのです。