法話
鏡
多田宏訓 満願寺住職(茨城県桜川市)/茨城中部仏青
「お坊さん。頭はどうやって剃っているんですか?」
「頭ですか?お風呂でひげを剃りながら、ついでに髪の毛も剃ってます。」
「えっ!自分でやってるんですか?」
「そうですよ~。慣れれば、鏡を見ながらカミソリで簡単にできますよ。」
いろんな方とお話をしていると、私の頭をじーっと見つめながら、聞かれることがよくあります。
私は3~4日に一度、鏡を見ながら自分で頭を剃っています。
鏡はとても便利なものです。今の自分の状態がどうなっているのか、剃り残しがどこにあるのか、ありのままの姿をうつしだしてくれる。
日常の生活をしていくうえで、なくてはならないものです。
1日に何回、鏡をみることがあるでしょうか?
きっと鏡を見ない日はないでしょう。
いや、正確に言うと鏡を見るのではなく、鏡にうつっている自分をみているわけです。
鏡にうつっている自分を見ながら、きちんとした姿になっているか、恥ずかしくない姿になっているか、正しい姿になっているか、確認しています。
私は、毎日仏様に手をあわせています。
正直な話、最近まで仏様を拝むことはどういうことなのか、あまりよく考えずに手をあわせていました。
いろんな意味があるでしょう。
心に願いをこめて祈るため、悲しみ苦しみを抱えて仏様に救いをもとめるため、亡くなった方を供養するため、いまこの世に生きる人たちが無事に平穏に暮していけますように祈るため、いろんな気持ちをこめて手をあわせます。
ただ、最近気づいたことがあるんです。
仏様は鏡であると。自分の心をうつしだしてくれる鏡であると。
東京工芸大学名誉教授で僧侶でもある加藤智見氏はこんなことをおっしゃっています。
仏は人間を超越した存在でも、人間を創造したり、支配する存在でもありません。
あえていえば、諸仏は我々の先輩であり、お手本となるべき存在なのです。
私たちは、人生の先輩方の生き方を手本とし、憧れ、反省しながら、自分の心を見つめなおしていきます。鏡にうつる自分を見つめるように。
仏様もまた、私たちにとって手本のような、身近な存在であり、鏡であるような気がします。
私は仏様に手をあわせるということは、鏡を見ながら襟を正すように、手本とし、反省し、自分の心を見つめなおしていくことでもある。
そんなことをも考えながら、仏様に手をあわせています。
しかし、自分の心を見つめなおし、反省することは意外とむずかしいものです。
今の自分を否定することでもあり、プライドというものが邪魔するからです。
反省をするのは、自分の失敗や恥を見つめる勇気が必要になってきます。
仏様という鏡は、そんな勇気を与えてもくれる存在であるようにも感じます。
失敗も反省をすれば、すばらしい心の財産になります。
仏様という大きな鏡で、正しい姿を、自分の心を見つめなおし、心に少しでも多くの財産を築いていければと思っています。