法話
仏に一番近い存在
春日井敏哉 海上寺副住職(愛知県名古屋市)/愛知仏青
6年前の12月、お世話になっている大僧正のもとへ暮れのご挨拶に伺った時のことです。生まれて3ヶ月の我が子を抱いて頂いた時に、大僧正がニッコリしておっしゃいました。
「赤ちゃんは徳があるなぁ」
それ以来、ずっとその意味を考えるようになりました。
一般的に「徳がある人」というのは、皆から信頼され、尊敬される人。気品があり、誠実な人。温情、理性、忠誠、勇気、名誉、自信、謙虚、等々。「徳のある人」とはそういったイメージがあると思います。仏門を叩かれた方は「仏様のような人」と思われるでしょう。
徳というものは長い年月をかけて、積み上げていくものだと考えていました。しかし、生まれたばかりの赤ちゃんに備わっているとは一体どういうことなのか。
考えてみますと、赤ちゃんはすごい力を持っていることに気づかされます。目の前にいるだけで、回りにいる人から笑顔を引き出す力を持っています。「オギャーッ!!!」と泣けば、回りにいる人を動かす力を持っています。(振り回す力ともいいますが・・・)
徳が備わっている大人の方は容易かもしれませんが、大人が回りの人々から笑顔を引き出すこと、職場等で人を動かすには大変な労力が必要ではないでしょうか。赤ちゃんはいとも容易くやってのけてしまいます。
真言宗豊山派は『懺悔文』という文を唱えます。
「我昔所造諸悪業 皆由無始貪瞋癡 従身語意之所生 一切我今皆懺悔」
私が昔から作ってきた色々な悪い業は、遠い過去から積み上げてきた、貪瞋癡すなわち三毒によるものです。それは、体で行った・話した・思ったという三業から生まれたのです。私は今、それら全てを懺悔します。
現世に限れば、生まれたばかりの赤ちゃんが悪業を作っているとは全く思えません。これから成長していくとともに積み上げていくものですから、悪業はほぼ0に近い状態、つまり仏様のお心(覚りの境地)に一番近い状態です。
赤ちゃんは純粋無垢で、邪な心など一切持ち合わせていません。赤ちゃんほど『十善戒』(十の善き戒め)をよく保っている人はいません。
しかしながら、赤ちゃんは幼児になり、青年になり、だんだんと仏様のお心から距離を置いてしまいます。心の中が黒い雲に覆われて、太陽の光が遮られてしまうのです。
人はどんどん光から遠ざかっていく自分の心に気づき、改めて光に近づこうと決心します(発心)。そして、光を求めてひたすらに努力するでしょう(修行)。そして、光に到達する力を得て(菩提)、たどり着いた場所(涅槃)は、赤ちゃんだった。そんな気がしませんか?
『それ仏法、遥かにあらず、心中にしてすなわち近し』
弘法大師のお言葉です。あの時の大僧正のお言葉が少し理解(妄想?)できた気がします。今日も5ヵ月になる三女は、備えている徳を回りにふりそそいでいます。