法話

こころがとけあう

河野泰隆 長安寺住職(千葉県君津市)/豊山仏青事務局長

たいようのしたで たのしくおどろう
あなたもわたしも てをつないでおどろうよ
さびしいときでも みんなでおどれば
こころはとけあって いつのまにかともだちさ

5歳になる私の娘が今一番お気に入りの「たいようのしたで」と言う歌の一節です。
リズムもよく、聞いていて、とっても心がぽかぽかしてくる素敵な歌です。私は特に「こころがとけあって」と言う詞が気に入っています。

お風呂場で元気いっぱいに娘の歌うこの歌を聞いていた時、「”こころがとけあって”ってどういう意味だと思う?」と聞いてみました。
少し困った顔をしながら、娘なりの解釈で次のように説明してくれました。
「う〜んとねぇ。○○ちゃんにぃ、いじわるされてぇ、私泣いちゃったんだけど、お遊戯会の練習で一緒に踊ることになってぇ、また、遊ぶようになったってことかな?」
歌の歌詞と幼稚園での生活を混ぜながらの説明でしたが、何とか歌の意味は理解しているようです。毎日のように名前を聞いていた友達のことを話さなくなったり、新しい友達の名前を聞いたりと、5歳とはいえ、幼稚園での生活は、子供たちの間で色々あるようですが、ふとしたきっかけで、さっきの説明のように「こころがとけあっている」みたいです。

このコーナーは、「○△□」という基本的な図形が、タイトルについていますが、子供たちの心をこの図形に当てはめるとどうやら「○」が一番合うように思います。時々、この「○」が「いなりずし」のようにゆがむことはあっても、「△」や「□」のように角張ることは少ないみたいです。
では、私たち大人はどうでしょう。心はコロコロと変わるから心って言うんだとは、よく聞く言葉ですが、ねたんだり、ひがんだり、うらやんだり、身勝手な振る舞いをしたり・・・・といったマイナスの心の方が日常で多くなってはいませんか。

真言宗の教えでは、人の心はもともと清らかなものであり、そしてこれは、仏の心と何一つ変わらない。仏そのものであると説きます。よって、私たちはみんな仏となる性質は持っていると言うことになりますが、なかなかどうして「私は仏よ!」と胸を張ることはできません。そうなんです。人の心の本質は、清らかでも、心はプラスとマイナスを行ったり来たり、コロコロ変わるものだからです。であれば、少しでも心が清らなかな時間を増やしたいものです。プラスの心の時間を増やすことが、充実した日々を送る一番の近道だと思います。
人の心は「○」に近い形にある時が幸せいっぱい。「△」でいっぱいの時は、不幸せ。「□」は・・・「△」よりは、柔らかく感じますが、角が一つ多いから不幸せでしょうか?「△」「□」の尖った角をコロコロ転がして、まあるくまあるくしたいものです。

みんなのこころがとけあえば、その形はやっぱり「○」ですね。
今日の私の心は、「○」の時間が「△」「□」より長かったように思います。明日もそうありたいと思います。

「たいようのしたで」 (詞・清水愛/岸田真穂 補作詞・中山知子 曲・フルーツパフェ)
より歌詞一部抜粋