法話

情けはひとのためになる

阿部昌元 正養寺中(東京都江戸川区)/豊山仏青事業次長

仏教には、多くの教えがあります。教えのひとつひとつはたいへん尊いものですが、そのなかでも特に大切とされるのは”慈悲”の教えでしょう。”慈悲”とは、仏さまや菩薩さまがわたしたち人間を含めた一切の生きとし生けるものをあわれみ、いつくしむ心のことです。
仏さまや菩薩さまは、すべての生き物に楽を与え、苦を取り除かれんことを願っておられます。ところが、最近ではこの”慈悲”について、なにやら心得違いをなされている方がおられるようです。

先日友人から食事の誘いがあり、大勢のお客さんで賑わうお寿司屋さんに参りました。
店内に入ると、友人の隣りに何やら見慣れぬ女性がおりました。その女性がなんとも美しいこと。
あまりの美貌に、僧侶の身でありながら不覚にも見とれてしまったほどです。
話を聞けば、友人はその女性とお付きあいしているとのこと。わたしは、2人のなれ染めを興味津々に聞きながらお寿司もいただくことにしました。
さすが、お客さんで溢れる人気店。どのお寿司も、とてもおいしいものでした。

ところが、急に大声があがりました。さきほどまで笑っていた美貌の女性が怒りだし、板前さんを怒鳴りつけたのです。怒りの原因は、ねぎとろ巻きのうえにちらされていた万能ねぎでした。
彼女は、苦手な万能ねぎを取り除くよう板前さんに注文していたようです。それなのに、万能ねぎがのっていた。彼女の怒りは、おさまることがありませんでした。何度も謝罪する板前さんを怒鳴りつけるので、周囲のお客さんはみな黙ってしまいました。
わたしは、なんとか女性をなだめ、店の外に連れだしました。興奮さめやらぬ女性は、なおも自分の正当性を主張していました。彼女は板前さんがいかに怠慢かを説明し、自分はとても深刻な被害を受けたと巻くし立てるように言い続けました。そして、彼女はこう言いました。

「”情けは人のためならず”って言うでしょう。客が入って有頂天になっているお店には、はっきり言ってあげないと駄目なのよ。反省が必要だわ。それが本当の慈悲ってものよ!」

わたしは、不意に飛び出した”慈悲”の言葉にすっかり飽きれ果ててしまいました。しかし、ただ呆れ果てているだけでは駄目だと思い、彼女に言いました。

「なるほど。確かにあのお店の板前さんは、あなたの注文を間違えました。あなたは被害者です。しかし、あなたの行いが”慈悲”から生じたというのは違います。慈悲とは、相手を救う行いです。あなたのしたことは、ただ単に怒りにまかせて相手の落ち度を責めただけではありませんか? もし本当にあなたが慈悲の心をもって行動しているのであれば、板前さんに挽回の機会を与えているはずです。食事を楽しんでいる周囲のお客さんの前で怒鳴らずに、まごころをこめてそっと忠告したはずです。あなたは、感情的になって大声をあげただけです。店内にいたお客さんが、楽しい雰囲気を壊した加害者としてあなたを見ていたことに気づきませんでしたか? あなたは、自分のことだけしか考えていなかったのではないですか?」

女性は一瞬黙ってしまいましたが、あくまでも自分は被害者だとわめきたてると怒って帰ってしまいました。楽しいはずの食事がとんだことになってしまい、わたしは自分がした余計な言動を反省しました。すぐに友人へ謝罪すると、「おまえが言ったことは正論だから」と笑って許してくれました。

”情けは人のためならず” その土台には、”慈悲”の心がしっかりとあります。
女性はこの言葉を、苦しみにあえぐ人を救うためにあえて情けをかけない行い、もしくはあえて人を非難し、どん底にたたき落として反省させる行いという意味にとらえていたようです。
しかし、”情けは人のためならず”の本当の意味は、情けを人にかけておけばめぐりめぐって自分によい報いが来る、人に親切にしておけば必ずよい報いがあるというものです。情けをかけた者も、かけられた者も双方によい報いがおとずれる。現代の表現でいえば「情けは人のためになり、情けは自分のためにもなる」のです。

最近は、人助けなんてするだけ損だ、自分さえよければいいと考える人もいるようです。
しかし、わたしたちにとっての”慈悲”は、相手を救うことで自分自身を高めるものです。
人間同士の助けあいから、信頼関係は生まれます。その信頼によって、今度は自分が誰かに救われるかもしれません。
“慈悲”は、人と人との間に他者をいつくしむ心を通わせ、その輪を拡げていくものなのです。

嬉しいとき、怒りにかられたとき、余裕のあるとき、疲れているとき、楽しいとき、悲しいとき、どんなときにも”慈悲”の心をもつことは大切です。
誰かのため、自分のため、みなさんも自分ができる”慈悲”の心について考えてみてはいかがでしょうか?