法話

東条閣下と和尚伍長

木村真弘 持明院副住職(埼玉県所沢市)/豊山仏青広報次長

汗をかきかき、夏真っ盛りのお盆、私はあるお檀家さんのお宅でお茶をいただいていた。
ふっと仏壇の上に旧帝国海軍の制服に身を包んだりりしい青年士官の写真と空母飛龍の写真が飾ってあった。そのお檀家さんは80歳以上。私は「ご兄弟の遺影ですか?」とお尋ねした。
するとお檀家さんは「それは私の写真です。すでに死んだ身ですから。」と答えられた。
そのお檀家さんは士官学校を卒業され、空母飛龍に乗艦、真珠湾攻撃やミッドウェイ海戦を経験され、乗艦している船が沈むたびに、サメがウヨウヨする南太平洋をプカプカ何十時間も救助を待っていたそうである。まさに九死に一生。
無事に東村山の自宅に帰ると、そこには真っ黒に焼け焦げた我が家の残骸があったそうだ…西東京や所沢は当時航空機産業が盛んで、飛行場や軍需工場を目的とした空襲がたびたびあった。
奥さんが言うには、パラシュートで降りてきた米兵を、村人が農具で惨殺する事件もあり、戦後GHQのジープがいつも村人に目を光らせていたそうである。
寺に戻りさっそく昭和20年の過去帳を見てみると、一年に150人ぐらいのお檀家さんが亡くなっていた。戦死と食料不足か子どもの仏様が多かったが、4月24日に40人ぐらいの檀家さんが一度に亡くなっていた。家族全員が亡くなっている家も目立った。空襲による犠牲になられたのだろうと推測した。

私の祖母は、結婚して2週間後に夫を戦争に取られた。寺の住職であった夫は出征にあたり、宗派より軍務の傍ら護国の花と散った勇士の英霊を弔い、仏に仕える軍人として責務を果たすよう従軍僧に任命された。

以来前線で活躍しながら、部隊に戦死者があるごとにポケットから折五条袈裟を取り出し、厳かに経を唱え野戦葬を営み、敵味方の別なく英霊を弔ったそうである。司令部は第一線から退かせて、従軍僧として服務させるよう伝えたが、帝国軍人として出征した以上頑として応じず、壮烈な戦死を遂げたのである。

「遺品の袈裟に秘められた和尚伍長の奮戦」田舎の町は住職戦死の報に揺れた。

新聞社は愛国美談と戦意高揚に記事にした。宗派や町による盛大な葬儀も束の間、祖母は東京行きの列車に乗っていた。
駅を降りるとそこには時の首相東条英機が馬に乗り、軍服に旭日章という定番の姿で、戦争未亡人達を出迎えた。
東条英機の自宅に招かれた祖母はその時の印象を謹厳実直、几帳面な人であったと日記に記している。
東条閣下は主人の名前に部隊、戦死した最後の様子をしっかり覚えていてくれ、慈悲深く偉大な指導者と涙したそうである。
そして東条閣下の鶴の一声で戦争未亡人救済のため特設師範学校が開設され、祖母はその第一期生として卒業。国民学校の教師として生徒達と寺に疎開して来て、その寺の住職と結婚してしまった。それが私の祖父である…

仏様のご縁とはまったくすごいものである。
もし和尚伍長が戦死しなかったら、祖母は東条閣下に会うこともなかった。
一緒に海に投げ出されたお檀家さんの戦友は、気がつくとサメに襲われ、亡くなっていた。

祖母の日記に
「長い間、山主の凱旋を楽しみに待っていた日々が仇のように思われ、名誉の戦死と諦めても反射的に愚痴が湧いてくる。手紙を四方に書こうと思っても筆を持つ気になれない。今更人生の悲哀を痛感してもしょうがない、ただ仏様の御前で合掌して、乱れる心を慰めるのみ…」
住職を戦争に見送り、寺の銃後を支えた多くの寺庭婦人のご苦労も計り知れないであろう。
住職不在の寺を守るのは容易なことでなく、葬式ができると近所のお寺さんに頼みに行くのが辛かったと祖母はよく言っていた。

最近時代の流れか、戦争を体験された世代が少なくなってこられた。
先達の貴重な経験に耳を傾けるのではなく、こちらから尋ね、聞けるときに聞いておかねばと思う今日この頃である。

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